滝川消防団の歴史

滝川消防団の歴史

第1節 滝川の消防団

1.消防組
滝川の消防は、和人の移住と上川道路の開さくによって、人馬の往来も頻繁になり、市街地の進展に伴い明治24年に警鐘台が設けられた。
屯田兵村にあっては、火気の取扱いは最も厳重な取り締まりを受け、兵屋は官給施設であるため家族は十分注意を払い火災はなく、また隣家との間も遠く離れているため大火となる心配はなかった。
滝川では、明治27年に田中信邦の主唱で有志者の寄付により、私立滝川消防組が結成された。「注・・・滝川町史(昭和15年10月1日発行)を参考」
滝川消防組の濫觴
明治29年6月頃なりしが、滝川村本通2丁目理髪業田中信邦(山口県人)主唱に依り有志相謀り私財を醵出 して、私立消防組を組織し、組員29名、梯子、鳶口、天水桶等を設備して警備に当たった。おの之が木村消防組の濫觴(訳 はじまり)である。後明治30年9月公立消防組の創立に困り、自然私立消防組は消滅となった。
これよりさき同年3月滝川村村費予算の組長会議に於いて、当時の第1組長藤川光太郎、第2組長高橋信行、第3組長吉村多門、第4組長槙荘次郎、第8組長高橋藤吉の諸氏は公立消防組創立の必要を認め此の建議案を提出した処、時機の熟する事とて大竹康造、高田直一郎の2氏も大いに賛意を表せるに至り、ここに村総代小原清兵衛、戸長小華和貞男氏とも相謀り村有者より金壱千余円の寄付金を募集して、前途の公立滝川消防組を組織し、本町5丁目旧拓殖銀行支店(現在の北洋銀行支店)角に消防番屋を建設し、金四百円を投じてドイツ式腕用ポンプ1台、付属器具、絆天等を設備し、組頭1名、小頭3名、消防手47名計51名で組織した。即ち組頭以下の幹部は次の如くであった。
組頭菅波銀司、小頭石黒吉松、小高勘次郎、山崎徳太郎の諸氏であった。而して消防手に対する訓練指導者は元札幌市(当時区)消防組頭にして明治22年部下の消防手等の騒擾事件の責任者として処分を受け後滝川町に来住本町3丁目に浴場営業をなし居りし平出菊次郎氏であった。(以下略)
滝川消防組第二部の誕生
市街地区が次第に広がり一の坂方面まできたので火防設備を要望する声が高まり、明治36年5月に私設消防組が設立された。その後明治44年6月に本通1丁目村上吉太郎、本田源造、進藤孝らが発起人となって私立消防組を組織し火災警防のため、札幌二二商会から腕用ポンプその他防火器具を購入して訓練し、市街の火災発生に際し協力出場することになった。
明治45年の初め頃に至って従来の消防機関では時宜に適さず、公立分置の必要があるとの声が高まり、市街を縦貫する国道を中心として西方を第一部、東方を第二部に二分するように、時の町長代理助役奥井直吉に相談し、明治45年2月28日の町議会で2部制が議決されて「滝川消防組第二部」として誕生した。
明治45年5月第2部の番屋を大町91番地(現大町5丁目1番1号)に建設し、大正3年2月16日、北海道庁令第16号をもって正式に承認されて次のとおり編成された。
滝川町滝川消防組
第一部(国道12号線以西一円)
第二部(国道12号線以東一円)
組  頭三 浦 庄 作
第一部長小 野 与太郎  小  頭今 出 清 六、 奥 田 幸次郎
第二部長五十嵐 太郎吉  小  頭池 田 好太郎、 進 藤   孝
滝川消防組第三部の誕生
市街地が広小路方面に発展して、大正元年2月火防設備の要望が強くなり「広親会私立消防組」が設立され組頭に亀谷虎蔵が当り、大正7年5月1日認可されて「」滝川消防組第三部」となった。
滝川消防組第四部の誕生
大正12年ごろ停車場通りの発展に伴い、及川喜兵衛が組頭になり「私立滝川義勇消防組」を結成し、番屋を空知通り北3丁目に建設した。
この義勇消防組が昭和4年4月にいたり公認されて「滝川消防組第四部」となり、同年8月及び昭和6年8月にポンプ自動車各1台を購入して火防強化がはかられた。
私立幌倉消防組の誕生
幌倉(東滝川)方面でも、発展に伴って昭和5年7月12日「私立幌倉消防組」が設立され、三谷登美が組頭となって幌倉地区火防に当たったのがはじまりで、詰所を昭和9年4月に東滝川駅前通りに建設した。
昭和8年4月第一部と第四部を合併させて第一部とし、全町3部制とした。昭和9年の団員構成は、組頭1名、部長3名、小頭7名、常備消防手7名、消防手60名の計78名である。
2.警防団
昭和12年7月7日に勃発した蘆溝橋事件から戦火はますます拡大して、支那事変に発展していった。同年9月北海道地方総動員警備に関する条例が公布され、国内は挙国一致の防備体制が強く叫ばれるようになり、国内の空襲警報、火災の防備、訓練に万全を期することを目的で「滝川町防護団」が編成された。
その後昭和14年1月25日勅令第20号をもって「警防団令」が公布され従来の消防組規則は廃止された。
滝川町では、昭和14年4月1日滝川消防組と滝川町防護団が合併して「滝川警防団」を新しく発足し、定員を250名(団長1名、副団長1名は北海道庁長官の任命、分団長2名、部長12名は警察署長任命、班長22名、警防団員212名)とし、2分団制に編成した。
すなわち市街地区は第一分団となり、幌倉(東滝川)地区が第二分団である。
昭和19年5月2日、滝川警防団は、組織変更の許可を受け消防部、警護部、救護部の3部制とし、定員を239名としたが、太平洋戦争終了後の昭和21年8月13日機構を改め、警護部と救護部の2部を廃止して消防部だけを残し、定員を153名とした。
警防団員当時の回想について、近藤又蔵(元滝川警防団第一分団第三部班長)は、次のように述べている。
昭和15年5月何故かうんもすんもなく、自分の意志など完全に無視され、町内の有志から「警防団員になってお国のために尽くせ」と言われ、躊躇していた矢先に駅前交番から「出頭せよ」の命令におそるおそる出頭したところ、身元調査と身体検査をされ、見事、パスをし警防団員になった。
当時は今のように消火栓がなく火災が発生したら近くのドブ水を吸水し消火をしたが、先輩団員から常に内部に進入して水を建物の柱や壁にぶつけ「1升の水を2升に」して消火するよう口うるさく言われ、入団ほやほやの小生にとって何が何やら解らず、ただ猛煙、猛火の中に付いていくのがようやくであった。
小生は余り酒をたしなまないが、とにかく何かがあると必ず酒を飲むのには閉口した、少ない手当は全て酒代にまわり、当然酒代がかさむことから幹部団員は、相当身銭を切らなければならなかったようであり、まるで金を出すために幹部団員がいるように思え、団員の飲みっぷりたるや凄まじいものがあった。
戦時中、「白鳥事件」の容疑者が、網走刑務所を脱走し滝川方面に逃走中との報に警察の命令で2日間に渡り山狩りをしたところ「石山」の山中で一人の薄汚い男が蹲っているのを発見したが、その時点ではその男が容疑者だとは思わなく、一本の煙草を差し出したところ、その男は煙草を美味しそうに吸い、1本の煙草に情をほだされたのか、おもむろに自分が容疑者であることを名乗り、その場で自首した。今思えば網走から滝川まで山伝ういをよく歩いて逃走したものだと逆に感心したものであり、その後札幌に移送されそこでも逃走し、最後は小樽で逮捕されたようだ。
警察から山狩りに協力したことで、一人ゴ-ルデンバット(煙草)10本が謝礼として支給され、物が無く煙草なども配給される時代であり、団員にとって有りがたいものだった。
終戦後の、年は不明だが12月31日の早朝に「割烹・鈴波」 (現在の北洋銀行裏の駐車場付近)で火災が発生し、第三部の管轄区域のため当然出動したが、消防車から水を出すことが出来なく、よって同建物に大きな被害を出してしまい、そのため町民に申し開きができないと第三部の団員間で協議した結果、小生のほか2人を残して解散してしまった。
その後、新団員をを募り駅前の「新谷食堂」で第三部の設立総会を開催したところ35名の者が出席し、満場一致で再編成され、飲めや歌えの大宴会を経て無事結成式が終了し、小生もようやく安堵した。
それから数日後に火災が発生したが、何と誰一人として番屋に駆け付けた者はいなく完全に喰い逃げされたと思い唖然としてしまった。
昭和26年12月15日警防団を退団し、退職金が支給されたが当時の退職金は1円に勤続年数を掛けた額が支給されており、小生も12年余りに渡り在団していたため、税金を差し引かれ11円某の金を手にしたが、かっての同僚たちが小生のために、送別会を開催してくれることになり、退職金を酒代として出したところ、酒1升も買えなかったという笑うに笑えない時代であった。
3.自冶体消防
昭和20年終戦をむかえ必然的に防備体制も再編され従来からの警察所管の防備体制から分割して、地域防災専門にあたる組織体制となり、昭和22年4月30日、勅令第185号で「消防団令」が公布されて、今までの警防団令は自然消滅することになったが、滝川町では、昭和22年7月10日「消防団設置条例」が議決され、同年8月20日新法令の基づく「滝川町消防団」が結成された。
新発足の滝川町消防団は第一部、第二部、第三部を市街地に、第四部を幌倉(東滝川)に置き、さらにこの年、滝川町消防団予防部(定員62名)を設置した。
昭和22年12月23日「消防組織法」が制定され、自冶体消防として市町村が、消防本部、消防署、消防団を設置することになった。続いて、昭和23年7月24日「消防法」が公布され、火災の予防、警戒、鎮圧など消防全般にわたる業務取扱いが示されて、自冶体消防の充実がはかられるようになったのである。
滝川町では、昭和24年6月17日「消防本部等設置条例」「消防団条例」が公布され、6月30日滝川町消防団の機構改革を行い、さきに設置した予防部を解散し、7月1日をもって、組織は4部制、消防団員は62名(団長1名、副団長1名、部長4名、副部長4名、班長8名、団員44名で各部15名の編成)の転院と定めた。
昭和27年10月15日、4部制を改めて4分団制とし、ついで昭和32年3月30日滝川町消防団条例の一部を改正して定員7名増加の69名、昭和33年12月15日さらに1名増員の70名として副団長2名制とした。
昭和46年4月1日、滝川市と江部乙町が合併して、新しい「滝川市」が誕生して、消防団の統合についても検討されたが時期尚早として、2消防団制を当分の間継続することとなった。
当時各分団については、次のとおりであった。
●第一分団
団員数18名
詰所位置栄町268番地(現2丁目6番)
管轄区域栄町(大部分)、花月町、明神町、新町、空知町、中島町
●第二分団
団員数17名
詰所位置大町91番地(現5丁目1番)
管轄区域本町(一部)、大町、緑町、一の坂町、朝日町、黄金町、東町、二の坂町、
北滝の川、泉町、西滝の川
●第三分団
団員数17名
詰所位置本町555番地(現1丁目6番26号)
管轄区域栄町(一部)、本町(大部分)、西町
●第四分団
団員数15名
詰所位置東滝川440の2番地(現2丁目)
管轄区域東滝川
滝川消防団第5分団の誕生
昭和40年から昭和50年にかけて、西町、東町、滝の川方面に住宅が建設され、発展するとともに、この地域の火災件数も多くなってきたため、地域住民から分団創設の強い要望もあり、昭和51年11月1日新設予定の第5分団要員を本部所属に任命して、消防団員としての教育、訓練等を重ねて、昭和52年4月1日「滝川消防団第5分団」が発足、管轄区域を泉町、西滝川、北滝の川方面の消防体制が充実された。
この時の消防団員数については、滝川消防団本部3名、第一分団17名、第二分団17名、第三分団16名、第四分団16名、第五分団14名の計8
女性消防団員の登用
近年、社会経済の著しい発展と生活様式の変遷により、災害の発展は、複雑多様化している反面、消防団員の確保が難しく、そのうえ年毎に消防団員の高齢化が進んでいる。(財)日本消防協会は、消防団の活性化を図るとともに消防団員の確保のため、女性消防団員の登用を決めた。北海道では、昭和52年5月23日釧路市消防団桂恋地区で消防団が漁師で不在となるため、女性を消防団に登用して有事に備えたのが始めてである。昭和63年、(財)北海道消防協会においても女性特有のソフト面を生かした消防活動の推進と消防団の活性化を図るべく、各消防団に女性消防団員の登用を呼びかけるとともに平成2年5月1日女性消防団員確保推進委員会要網を制定し、消防団長5名、学識者3名、計8名の委員を委託し委員長には、滝川消防団長奥野義雄を選任した。滝川市においても、消防団員の確保が困難な状況下であったため、女性消防団員の登用について調査検討し、有事対応と併せ予防消防の推進にも力を注ぐべきとの結論を得て分団定数の見直しを行い、滝川消防団は5名増員して90名にして7名登用、江部乙消防団は3名登用することとして「広報たきかわ」等に募集登載。応募数について、消防団長等から面接の結果10名に決定し、平成2年11月1日、消防本部で入団式を行ったが空知管内では初めて、北海道では6番目の女性消防団員の登用となった。入団式は、奥野義雄滝川消防団長、宮崎信治江部乙消防団長からそれぞれ辞令が交付されたあと、10名全員で「地域住民の防災に全力を尽くします。」と宣誓したあと、消防団員としての基礎的な知識と救急知識の習得に努めて、今日に至っている。
女性消防団員の業務
(1)予防広報活動  ~ 街頭広報、巡回広報
(2)防 火 査 察 ~ 独居老人世帯、寝たきり老人世帯 (消防職員のアシスタント)
(3)救 急 講 習 ~ 職場、町内会で行う救急講習 (消防職員のアシスタント)
(4)演習等の参加  ~ 出初式、消防演習
(5)そ  の   他  ~ 女性の特性を生かした業務

第2節 江部乙の消防団

1.消防組
江部乙は、明治27年5月に、屯田兵400戸が移住し、開墾と北方警備にあたり、明治42年4月滝川村より分離独立して江部乙村が設置された。
当時の屯田兵各戸の距離が40間から31間余りてていたため、火災が発生しても類焼のおそれがないことから消防上の施設を必要と感じてはいなかった。
明治34年4月から兵村屯田兵は後備役となり、明治39年11月に「土地給与規則」が廃止されるに及んで土地の売買が行われるようになり、12丁目国道に市街の形成をみるようになった。
明治45年6月、市街地の発展に伴い消防施設の必要を痛感した坂田鶴松駐在巡査及び黒田策一、岩本秀次郎などの発起により、市街地住民の寄付を募り、腕用ポンプ1台を購入し組員25名をもって私設消防組が創設し、組頭に黒田策一、小頭に岩本秀次郎、濱友太郎があたった。
大正4年10月に至って、公立江部乙消防組として許可され、江部乙一円をその区域と定められたが、当時の村財政は諸経費全額の支出は困難であるところから、大正5年10月消防後援会が組織されて、市街住民から寄付を募り消防経費の一部を補足して消防機能の発揮に尽くした。大正11年には、さらに市街地住民の寄付を仰ぎ、第2号消防ポンプを購入してその充実をはかった。また同年11月団員20名により、団員の被服は新川長八、火見櫓は平野某氏から寄贈を受けて「消防応援団」が組織された。
昭和2年5月1日、市街地の発展に伴い、戸数が増加したため統制ある消防活動の必要性に迫られ、さきの消防応援団を第二部とし、2部制が施行され幹部は次のとおりである。
江部乙村消防組
組     頭浅 田 亀 吉
第 一 部 長木 村 栄 吉
第一部付小頭玉 置 一 平、武 田 栄 吉
第 二 部 長虎 谷 宗 平
第二部付小頭長谷川 国 光、大 崎 利 吉

昭和3年11月、従来の火の見櫓が改築され、昭和4年8月在郷軍人分会より寄付を受けた時報及び警報用の3馬力モ-タ-サイレンをこれに取り付けた。
昭和4年11月に2800円を投じて20馬力ポンプ自動車を購入して第一部に配置、さらに昭和6年5月」には、消防組員の積立金500円を基礎として、市街地住民の寄付及び不足分を部落民の寄付により、シボレ-25馬力ポンプ自動車を購入して、これを第二部に配置し、また同時に番屋を西12丁目鉄道東側角地に新築した。
昭和11年7月に第一部のポンプ自動車をフォ-ド30馬力の新車に更新して、防火の完ぺきを期した。
2.警防団
昭和14年1月25日、警防団令が公布されたことにより、同年4月1日江部乙消防組も「江部乙村警防団」と改称し、防火その他の災害の救助又は防空警固に勤めることになった。
警防団設置当時の団員数は、次のとおりで二部制であった。
団長1名、副団長1名(以上北海道庁長官任命)、部長2名(警察署長任命)、班長11名、警防団員99名からの114名。
昭和16年12月太平洋戦争の勃発とともに警防団の責務は一層重要性を増し、対空警戒、燈火管制、防空防火など日夜めまぐるしい体制にあった。

警防団員当時の回想について、伊藤 保(元江部乙消防団長)は、次のように述べている。
昭和20年2月1日敗戦を目前にして現役で旭川二部隊に入隊し、一期の検閲が終わり、千葉に移動し終戦を迎え9月10日帰宅したのであります。勧められるまま11月1日江部乙警防団員を拝命し、軍隊の延長の気分で張り切って、番屋の庭掃きから始まり使い走り、そしてサイレンの鳴るのを待ちわびる毎日でした。当時は朝鮮、中国の人が集団で毎日のようにリンゴ園に来て、勝手にリンゴを袋に詰めて持っていくのです。赤平炭坑でそれぞれの國から強制労働に連れて来られた人達で、その度にサイレンが鳴り警察を先頭に取り囲むが、敗戦国の情けなさ手出しが出来ないのです。又、リンゴ園の主人が木に縛られているのも見ました。当時は殆ど警察のお手伝いでした。
12月の寒気厳しく小雪のちらつく日でした、サイレンが鳴り、張り切っている小生は馳せ参じ、事件を起こした朝鮮の人を4キロ程追い掛け捕らえたこともあります。又、一人暮らしの老人が殺害され、死体を部屋の片隅に安置し、それを3人づつ交代で夜通し見張るのですが、恐ろしさのあまり一番後ろについて、早く朝が来るのを待ったのも昨日のように思い出されます。又、タケノコ取りの老人が遭難して、自衛隊と共に一山越えた音江まで捜索し、ウルシにかぶれひどいめにあった事もありました。
小生の家から消防番屋まで300m程あり、サイレンが鳴り駆け付けると200m位のところで必ず目眩がしフラフラしたものです。
3.自冶体消防
昭和22年4月30日、消防団令が公布されたことにより、同年7月7日「消防団設置条例」が議決制定され、同年7月16日「消防委員会」を設置市、警防団員から適任者を消防団員に推薦して、同年7月21日新しく「江部乙村消防団」が発足した。
団員は団長1名、副団長1名、部長2名、班長4名、団員40名の計48名による2部制で、幹部の選出は団員の互選とした。
昭和22年12月23日「消防組織法」が制定、さらに昭和23年7月24日「消防法」が公布されて自冶体消防となり消防職員の新しい権限として火災予防行政などが加わったことにより昭和25年9月30日、常備消防員として亀井三郎を任命して火災予防、監視、防火施設の管理立入検査等の実施に当たらせた。
昭和26年8月21日「江部乙村消防団条例」及び、「火災予防条例」を公布して、消防団員定数48名、年額報酬及び勤続加算数を定め、表彰、懲戒等を制定し、さらに火災予防全般について定められ、さきの消防委員会を廃止した。消防団の組織についても、消防団本部を組織し、二部制を三部制に改組下。
昭和33年10月20日、消防ポンプ自動車(日産キャリア-型全輪駆動)を215万円で購入して第三部に配置し、昭和36年11月には第二部の消防自動車を日産85馬力全輪駆動消防ポンプ自動車に項威信して消防力は一段と充実した。又、サイレンも7馬力3方式に改めた。
昭和38年には、可搬動力ポンプを購入、又、この年に夏冬両用搬送用具を発明制作して、消防庁長官表彰を受けている。
昭和42年5月、近代火災に対応するため油火災用消火器具を購入し、同年12月第一部の消防ポンプ自動車を水槽付消防ポンプ自動車に更新した。
昭和44年10月には、中空知信用金庫(現 北門信用金庫)から100万円の寄付があり、小型動力ポンプ積載車を購入し、小型班7名を配置した。この体制で、昭和46年4月1日滝川市と合併したが、消防団においては従来どおり江部乙消防団としたが、滝川消防署江部乙分遣署を開設し、同年6月1日専従2名の消防職員を配置した。
女性消防団員の登用
江部乙消防団においても、消防団員の確保が困難な状況下であり、滝川消防団の登用にあわせて、分団定数の見直しを行い、消防団定数内で3名を登用することになった。
江部乙の女性消防団員  石川 静子、斉藤 重子、平澤 眞佐子
女性消防団員登用の回想について、石川静子(女性消防団員)は、次のとおり述べている。
平成2年11月、滝川市女性消防団員誕生という名のもとに江部乙3名、滝川7名で結成され、何も解らない素人に敬礼、整列、行進、救急訓練まで本当に発足時は、教える職員、覚える私達団員も必死でした。仲間で仲良く協力し合う訓練の日々、楽しい日々でもあったのは間違いありません。
全行程を終えて救急講習、独居老人宅の防火査察、出初式にも参加、火災現場にこそ出動はありませんが、江部乙の山林火災訓練で火災の恐ろしさを知り、一人でも多くの人に注意を促せたらという思いになりました。
近所で火災が多かったのと、子供の友人宅の火災が多かった事もあって消防には何か縁があった気がします。一人でも多くの人にお知らせできれば良いなと思い、男性団員、職員さんの手伝いになればと思い10名足並みそろえて歩んで行きたい。
年令も30代から40代、職業も皆それぞれ違う人達、子供さんが小さい人もいる中で体験を通じて、外から見ていた「消防」という職の「重要性」や「すばらしさ」について改めて見直すことが出来ました。
これから先も団員として活動していく中で、何よりも大切な女性消防団員という意識をもって予防、広報活動に力を出したい、出そうという決意で10名頑張って行きたいと思います。

第3節 新滝川消防団の誕生

1.消防団の統合
滝川市と江部乙町が昭和46年4月1日対等合併し、新しい「滝川市」の誕生をみた。 消防団の統合についても市町合併協議会において検討されたが、消防団は、郷土愛護精神を尊び、先達が辛苦を克服して築いた歴史のなかには、気風や組織運営の違いが、伝統として受け継がれており、市町合併と同時に消防団の統合をすることは問題を残すおそれありとして、次のように決めている。
(1) 江部乙消防団は、当分の間存置する。
(2) 江部乙消防団常備部は、滝川消防署分遣所として引き継ぐ。
〈注〉町村合併に伴う消防機関の取り扱いについて(抜粋)
昭和29年2月17日、國家消防本部総務課長通知
その区域の全部を合併する町村の消防団は、原則として合併町村の消防団の各分団とすること。但し、特別の事情があって万止むを終えないときは、当分の間(例えば従来の消防団長の任期満了まで)合併関係市町村の各消防団として存置し、連合消防団長等の便宜措置を講ずることは差支えない。(以下略)
戦後、消防業務が地方公共団体の運営に委ねられてから、1市町村1消防団とすることが災害発生時における指揮統率が円滑に対応できるとの観点から北海道内の市町村は、消防団の統廃合が急速に進められている。
滝川市においても昭和46年9月頃から滝川、江部乙両消防団の統合問題について調査検討され、昭和47年滝川地区広域消防事務組合の設立を契機として両消防団の幹部会議等で協議されたが、時期尚早として2消防団制を継続することとなった。
昭和60年に入り、両消防団に統合の機運が昴まり、両消防団から副団長以下12名ずつの幹部をもって統合準備委員会を設置し、委員長に江部乙消防団副団長に宮崎信治を副委員長に滝川消防団副団長柴田賛三を選任して積極的に会議を重ね協議検討されたが統合するまでには至らなかった。
滝川地区広域消防事務組合設立20周年記念式典が、平成3年4月5日、滝川市青年体育センターで盛会裡に開催され、祝賀会のなかで吉岡清栄組合長は、雨竜消防団は同年2月13日(財)日本消防協会特別表彰「まとい」を受彰したが、滝川消防団はこの「まとい」の受彰資格がない。滝川市町を今期で退任(任期、平成3年4月26日)するので、滝川、江部乙両消防団が早晩統合されることの願いを込め「まとい」を滝川消防団に寄贈する旨の挨拶があった。
〈注〉(財)日本消防協会特別表彰「まとい」の受彰資格
(1)(財)日本消防協会表彰旗、自治省消防庁長官表彰旗を受彰していること。
(2)(財)日本消防協会主催の消防操法全国大会に出場し、優秀な成績であったこと。
(3)(財)日本傷病協会が行う諸事に積極的に協力していること。
※ 滝川消防団は、消防操法全国大会に出場していないため授彰資格がない。
滝川消防団長奥野義雄団長と江部乙消防団宮崎信治団長は、吉岡清栄組合長の意図を踏まえ、また平成2年11月1日夕張市の夕張・鹿島両消防団が統合し、空知管内の複数消防団を有するのは滝川市だけとなり、空知支庁の指導もあって、何とか早急に統合実現に向けての対応策について協議を重ね、幹部会議で直ちに了承され、江部乙消防団員の理解協力を求めることとした。
江部乙消防団宮崎信治団長は、早速、団本部会議、幹部会議、団員総会を開催して、滝川消防団との統合について諮ったところ賛否両論あったが2年後の平成5年5月1日付をもって統合することで全団員の同意を得て、平成3年4月22日付、確認書に分団長以上6名が署名押印して、同年4月24日吉岡清栄滝川市長に提出した。
※ 宮崎信治は平成3年4月25日付、申出により退団、よく月26日松原秀雄が団長に就任。
滝川、江部乙両消防団幹部合同新年会は、平成5年1月30日市内のホテルで開催されたが、林芳男滝川市長は「両団は本年5月1日付で統合と吉岡前市長から引継ぎを受けたのでこのことを尊重したい、両団が大同団結して地域防災にあたることは、すばらしいこと。」と挨拶した。荒木栄助役は、2月8日両団正副団長会議を開催して統合の進め方について協議したところ平成5年5月1日の統合を前提とした統合準備委員会を設ける。委員は、副団長以下7名ずつで構成することを決めた。
第1回統合準備委員会は、平成5年2月15日消防本部で開催。会議に先立ち荒木栄助役から、会議開催に至る経過と平成5年5月1日の統合式典開催、そのためには3月議会で消防団条例の一部改正を提案したい旨の説明をし、これを了として次の事項が決定された。
(1) 会の名称   滝川・江部乙消防団統合準備委員会
(2) 統合の方法  対等合併
(3) 団の名称   滝川署防団
(4) 団員の定数  138人(両団定数を加えた数)
その後の統合準備委員会で消防団幹部人事と記念式典の執行について協議を重ね、3月30日開催の統合準備委員会で、初代消防団長に奥野義雄を満場一致で推薦することに決定されたが、統合日を目前にした平成5年4月22日病悪化しご逝去された。
このため再度統合準備委員会を開催、冒頭柴田賛三から委員長辞任の申出があり、これを了として後任委員長に浮穴孝良を委員に赤羽由晴をそれぞれ選任して会議を重ね消防団長に滝川消防団副団長が推薦された。
なお消防団条例の一部改正は、平成5年3月5日開催の組合議会第1回定例会で可決され諸手続きを経て、平成5年5月1日予定どおり滝川、江部乙両消防団統合に係る諸事が次のとおり執り行われた。
消防団統合について、柴田賛三(前滝川消防団長)は、次のように述べている。
永い間の懸案事項でありました両団の統合問題が再度持ち上がり、平成5年5月1日をもって両団の統合を行うよう、統合委員会を発足、両団から副分団長以上7名の委員を選出し、委員長には滝川消防団副団長、副委員長には江部乙消防団副団長が就任して、1月末より団運営について話し合うが両団の長い間の歴史、伝統があるもの同士が1つになる事の難しさをつくづく感じた。
それでも、組織名称も決まり初代団長には奥野義雄氏に決まり、後は式典準備するのみであったが、奥野氏が体調を崩して、平成5年4月22日朝、遂に帰らぬ人となり、急遽、新団長の選任をして推薦をしなければならなくなったため、4月24日から毎夜委員会を開催し、深夜の12時頃まで話し合う事もたびたびで、世に言う「寝食を忘れて奔走し」何とか5月1日に統合式典を挙行することに努力をした。
2.新滝川消防団のあゆみ
平成5年5月1日永年の懸案であった消防団の統合により、消防団の運営な並びに事業推進において同一歩調が可能となったが、当分の間、団本部幹部を団長1人、副団長3人本部分団長2人体制として、滝川、江部乙地区に副団長、本部分団長を置き消防団業務の掌握に務めたが、現在は団長1人、副団長1人本部分団長1人の体制となり、一消防団としてのバランスある組織となっている。
また、今までは、それぞれの消防団で実施していた事業の統一化に着手し、訓練、演習参加、教育、福利厚生等あらゆる分野においても一本化を図った。
訓練においては、以前は滝川地区及び江部乙地区の地域性を踏まえ、独自の事業計画により訓練を実施していたが、特に江部乙地区は滝川市唯一山林がある地域で、旧江部乙消防団は、昭和62年度から毎春「山林防ぎょ訓練」を実施しており、平成6年5月22日、丸加山周辺で実施した山林防ぎょ訓練は、江部乙地区第3出動の想定として滝川地区の分団も参加して、水利部署訓練と専用資機材を活用して連携を取った防ぎょ訓練を実施した。
滝川地区の分団にとって初の山林防ぎょ訓練ではあったが、お互いの協力のもと道理にかなった防ぎょ訓練に関係者から大いに称賛を得たところである。
また、同年10月23日には滝川地区の公共施設を利用して「建物火災防ぎょ訓練」を実施するなど、毎年春秋に新滝川消防団の訓練として実施している。
演習等は消防団員相互の連絡協調を図り、もって消防技術を演練消防人としての資質向上と士気高揚並びに地域住民の防火思想の普及徹底と近代消防の確立を目的として実施するもので、昭和56年の水害を教訓にして昭和58年から開催された滝川市主催の「滝川市水防訓練」への水防隊としての参加、消防職団員が計画、立案実施する滝川市地区の消防演習、滝川地区広域消防事務組合の構成市町による連合消防演習、中空知5市5町の輪番開催の中空知連合消防演習、消防出初式など消防団員が積極的に参加して消防技術の錬磨は勿論のこと、地域住民への高度な消防技術の披露及び火災予防意識の高揚を図るなど消防団員が一体となり常に弛まない努力を続けている。
過去、年末になると火災が非常に多かったことから12月20日から30日まで各分団が輪番で詰所に待機し、非常時に備えて警戒したが現在では警戒期間を12月25日から30日の21時から2時までと短縮したが、2~3個分団が待機し市内全域の警戒に努めるとともに、有事には逸早く出動し、被害を最小限に抑える体制下にある。
また、消防団員の教育は北海道及び北海道消防協会が主催する消防団員現地教育訓練講習会への参加、北海道消防学校での幹部教育、5年勤続未満の団員を対象として、消防職員による規律訓練及び消防団員としての消防知識の研鑽など教育訓練を実施している。
救急出動の増加に伴い、応急処置・救命法を学ぶ救急講習も地域住民から開催要望が増大し、当組合も「応急手当の普及活動の推進に関する実施要網」を定め、住民に対する応急手当に関する正しい知識と技術を教育し、職員のアシスタントとして普及活動の一翼を担っている。
人が組織において活動をする以上、福利厚生は欠かすことのできない事業であるが以前は、それぞれが規約を設け事業を行っていたが、事業自体は同様でも内容に若干の差があり、全消防団員総意のもと新しい「滝川消防団員福利厚生会」が発足し、平成5年5月1日に規約施行、同年9月16日運営規約が施行され、慶弔関係、家族慰安会及びスポーツレクリェーションの開催など、人間的なかかわりあいの部分において大きな成果を上げている。
それぞれの消防団では消防団事業の円滑な推進、幹部団員相互の親睦と福利の増進を図るため班長以上の幹部会議による「幹部会」が組織されていたが、平成7年度に新たな会則のもとに「滝川消防団幹部会」を発足させ、滝川消防団の将来的な指針の検討、協議及び計画の策定など常に消防団の方向を見据えた組織を作った。
滝川、江部乙の消防団は消防団業務の立案、検討及び審議する「幹部会儀」を班長以上の幹部団員で行っていたが、統合後は分団長以上会議年6回、班長以上会議は年6回開催して事業の結果報告、翌月の事業計画と消防団業務の推進について審議しより良い消防団運営に努めている。
旧滝川消防団と旧江部乙消防団が統合したことは、前述のとおりであるが旧江部乙消防団は組織後80年を超える歴史がある消防団であることから「江部乙」の名称を分団の名称に残し、滝川消防団江部乙第一分団、江部乙第二分団、江部乙第三分団としていたが、平成9年は「滝川消防公設100年」を迎えるにあたり、分団名称を統一し、消防団組織をさらに強固にして地域防災にあたる必要ありと江部乙地区の団員から提案されて、分団名称を発展的解消して平成9年1月1日滝川消防団第六分団、第七分団及び第八分団と改称した。
滝川消防公設100年並びに常備消防65年記念誌より