新十津川消防団の歴史
火防組合と私設消防組
明治27年勅令第15号をもって、消防組規則が公布され、全国的に消防の組織が統一整備され、消防組が置かれるようになったが、開村当時の消防はまだ何ら設備はなく、各自警自防の状態であった。しかし、その後人口の増加と市街地の発展により、明治末期から大正初期にかけて菊水町、橋本町、下徳富、西徳富などの市街地で火防組合が組織され、各地域内の夜警その他の任に当たるようになった。明治42年に至り、橋本町に村内で初めての私設消防組が設けられ、その後、各市街地でも私設消防組が誕生し、火防組合と連携して消防及び警備を担任するようになった。
公設消防組の設置
大正7年8月31日菊水町、橋本町及び下徳富の3消防組の公設が許可され、ついに翌8年4月1日、西徳富消防組が設置され、ここに初めて本町の消防組織が確立されるに至った。当時の組織は、次のとおりであるが、この組織は、昭和14年4月、警防団に改組されるまではほとんどがそのまま継続された。
組 名 | 組 頭 | 小 頭 | 消防手 | 計 |
---|---|---|---|---|
菊水町消防組 | 1名 | 4名 | 31名 | 36名 |
橋本町消防組 | 1名 | 3名 | 32名 | 36名 |
下徳富消防組 | 1名 | 3名 | 32名 | 36名 |
西徳富消防組 | 1名 | 3名 | 32名 | 36名 |
消防組の施設は、詰所、器具置場、火の見やぐら、警鐘などを設け、年々これらの整備をはかるとともに、火防用井戸の発掘なども行われるようになったが、公設とはいっても経費のほとんどは関係住民の寄付でまかなわれ、村費の支出は極めて微々たるものであった。消防器具としては、手押しポンプご主力で、各組とも1・2台を備え、昭和に入ってからは各消防組ともガソリンポンプを配備するようになった。昭和10年、橋本町と西徳富に初めて三輪自動車ポンプが導入された。価格は1台3,000円余りであったが、そのうち村費の負担は1,000円で、あとは住民の寄付によりまかなわれた。自動車ポンプが配備されるようになったのは、昭和18年の菊水町が始めてで、警防団組織になってからであり、その他の団においては戦後のことである。
新十津川防護団の設置
昭和10年7月、国際情勢は緊迫の度を増して、本道で初めて防空演習が実施されたが同12年7月、日華事変が勃発して、ますます防空は緊要事となり、新十津川防護団が創設された。防護団は、消防組と提携して防空警備の任に当たることになったが、昭和14年に至り警防団に統合された。
新十津川警防団の設置
昭和14年1月24日、勅令第20号をもって警防団令が公布され、同年4月1日、従来の消防組及び防護団を改組統合して新十津川警防団が設置された。警防団は、所轄警察署長の指揮下に置かれ、国運をかけた太平洋戦争の期間中治安警備、防空防火訓練など、いわゆる銃後防衛の重責に任じたが、昭和22年、消防団に改組みされた。本町警防団の組織は、次のとおりであったが、一方、防空体制の完璧と警防団の強化を図るため、各行政区を単位とする23の警防団後援会が昭和14年5月結成された。これは他町村に先例のないことで、防空及び消防業務の遂行上大きな力となった。その後、昭和18年3月11日、第二分団の区域のうち第1・2・3・16・17・21の各区を分割し、これらを区域とする第五分団が設置された。
新十津川消防団への改組
終戦後、我が国は連合軍の占領下に置かれ、政治・行政・教育その他各般にわたって民主化改革が断行された。消防組織についても昭和22年4月、勅令第182号をもって消防団令が公布されたのをはじめ、同年12月消防組織法、昭和23年7月消防法が制定され、警察の指揮下にあった警防団は消防団に改組され、消防は市町村の事務となった。本町では、昭和22年6月29日、新十津川消防団条例を制定して消防団への改組を行った。
地域消防団組織への改組
昭和25年3月30日には、消防団条例が制定され、従来の団本部及び5分団編成という組織から各地区ごとに独立した本団を設置する組織に改められたこの改組のならいは、義勇消防の趣旨を尊重して、できるだけ各地区の実情に即した自主的な運営を期待章とするものであった。このような組織は、他の町村においてはまったく類例のない消防組織である。
その後の消防団組織、消防力、施設整備、団員の処遇等の支弁については、地域依存型から逐次全額町費負担をもって改善を図る方針が打出され、各団の消防ポンプ自動車、小型動力ポンプ、消防水利等の充実整備が図られるようになった。
昭和36年12月3日、新十津川消防会館を旧役場庁舎南側に附設して中富徳消防団を移し、役場を中心とした隣接地域の市街地、周辺住宅化の進展などに対応した消防体制を図ることとした。翌年4月1日には同団会館に消防常備部を設け、町職員による常備職員2名を配置して団、団員との連携による初動体制の充実に努めた。
昭和38年4月1日には、全国の消防団が用いていた緊急通報電話119番を北中央区川村多作呉服店から譲り受けて、常備消防部に移設した。同年12月8日には、休日、夜間等における敏速な火災出動のため、常備職員住宅を新築、中徳富消防団には、常備部消防職員の配置を行った。また、各団体の中心的役割と中空知消防支部等の対外関係から、町名を表す団名が望ましい旨の各団体からの要請があって、同年12月13日には町消防団条例の一部を改正して翌年1月1日より同団を新十津川消防団と名称を改めた。
昭和39年3月7日、消防行政の広域化、消防機関の強化と多様な火災発生に対処するため、中空知9市町(赤平市、滝川市、砂川市、歌志内市、上砂川市、奈井江町、浦臼町、江部乙町、新十津川町)による消防相互応援協定を締結し、7月1日には火災予防条例を施行して予消防行政の徹底を期することとした。
昭和40年3月1日、新十津川消防団常備部に本町で初めて水槽付トヨタFA型130馬力ポンプ森田式の消防ポンプ車を配置し、10月1日には常備職員を3名体に増員配置した。
昭和41年10月1日、団常備町職員を消防事務所掌の総務課庶務係兼務発令し、翌年6月1日には、消防係を新設、常備消防を同係に組織替えし、消防事業全般を担当する係とした。
昭和42年8月18日、従来の新十津川町消防団条例を廃止して、新たに新十津川消防本部設置条例、新十津川町団条例及び施行規則を制定公布して消防組織体制を一新した。改正の要点は、消防本部を設置して消防行政の統括、消防組織命令系統の明確化を図る。従来の地域消防団を全町一円の消防団に一本化し、各団を分団とする。団常備、消防係は消防本部の消防機関に組織替えする。
昭和42年8月31日公設消防創立50年を迎え、記念式典、連合消防演習大会を青年研修所等において開催、この日を契機に今後毎年の8月31日に町連合消防演習を実施することと決定された。
昭和43年4月1日、本町の字名及び地番改正施行に伴い、公共施設の名称改正が行われ、分団名称、位置字地番を次のように改めた。
分 団 名 称 | 分 団 位 置 | 備 考(旧分団名) |
---|---|---|
第 1 分 団 | 字中央6番地3 | 中 徳 富 分 団 |
第 2 分 団 | 字花月243番地5 | 下 徳 富 分 団 |
第 3 分 団 | 字中央71番地97 | 橋 本 町 分 団 |
第 4 分 団 | 字大和116番地1 | 上 徳 富 分 団 |
第 5 分 団 | 字吉野105番地地先 | 西 徳 富 分 団 |
しんとつかわ消防・公設80年史より