芦別消防団の歴史
第1章 消防の誕生
1節 私設芦別消防組の誕生
1 下芦別火防組合の誕生
明治26年芦別下班渓(現常磐町)に和人が定住以来、年を追って入植者が相次ぎ、次郎島(現福
住町)下芦別(現本町)上芦別、野花南、辺渓(現旭町)などの各部落が次々と開発されていっ
た。
明治33年6月1日、歌志内村から分割して芦別村が初めて独立し、その年の7月15日下芦別に戸長
役場が開設された。役場の開設後、下芦別は、急激に発展していった。しかし、発展と共に、住民
の生命財産を保護する消防機関がないために災害上の不幸が少なくなく、火防の必要が痛感されて
きた。
その頃、北海道庁令をもって火防取締規則の改正があって、第一にストーブ煙筒の突出部の長さ
が制限されたため、芦別地方を所轄する滝川警察分署長は、下芦別駐在所在勤の松本末松巡査に命
じ、その実施監督を厳重にするとともに火防組合の組織化を要求した。
大正元年12月19日、関係者の集会において下芦別火防組合設立の規約を制定し、次の役員を選出
した。
◎ 組合長 横山 松之助
◎ 副組合長 森開 仙吉
◎ 評議員 沼田 次吉・沼田 弥三郎・青井 友造・才川 庄太郎・畠野 仁太郎
吉村 又兵衛・有田 誠熊
下芦別に人が集まり、災害に対する無防備から住民の火防に対する意識が高まった。また、松本
末松巡査が本市の消防人第一人者であろう。
2 私設消防組の誕生
その後は、規約により毎夜警番を編成して市街地の巡回を行なったが、移住者の増加と市街地の
発展に伴いより強固な消防組織の必要が感ぜられ、住民もまたその実現を切望した結果、大正5年
10月に市街民大会を開催して、私設の消防組を組織することを満場一致をもって可決されてい
る。
翌年、大正6年2月20日私設芦別消防組として発会式を挙行し発足している。
◎ 組 頭 大西 六三郎
◎ 小 頭 沢田 弥三郎・北島 甚松・島津 晃太郎
2節 公設消防組の誕生
1 公設消防組の誕生
大正6年2月私立芦別消防組が設立されて以来、組頭以下組員の献身的な行動と顕著な行動が一般
に認められた結果、早くも翌年大正7年4月村会において公立消防組組織に変更することが満場一致
をもって可決され、直ちに関係庁に上申の結果、同年5月17日付をもって公立芦別消防組設立が許
可されて公布をみるに至った。
(金馬簾一条の使用が許可される。)
大正10年5月、滝川警察署において第1回消防講習会が開かれ、南部金吾、川島千代作、川原広
次、西政勝が出席して北海道庁から熟達証が交付された。
その後も引き続き講習生を送り芦別消防組の陣容はますます充実されていった。この年の12月6
日消防成績優良のため、金馬簾(きんばれん)一条の使用が許可される。(金馬簾とは、消防成績
優秀または功績をたたえ、まといに下げる金の帯で、この本数が多いほど優秀な消防であった。)
2 消防組の二部制
公立消防組の組織後、市街地の戸数の増加に伴い、従来の単一消防組では消防力が乏しいことも
あったので、大正12年5月、二部制を採用する。
第一部は、下芦別停車場以南の市街地、下芦別御料地(西芦別方面)及び上芦別とした。
第二部は、下芦別停車場以北の市街地、下班渓(現常磐町)、上班渓(現黄金町)、三又の沢
(現豊岡)、新城、辺渓(現旭町)とした。
(下芦別の大火)
昭和3年4月11日に、突如として下芦別市街が大火に見舞われた。
午後4時20分頃、市街中央部の百島薄皮工場乾燥室から突然発火、おりから数日にわたる晴天で
乾燥していたため、またたく間に空前の大火となった。
町内あげて消火に全力を注いだが、水利が悪く午後6時かろうじて鎮火した。約2時間で市街の大
半は焼土と化してしまった。
◎ 消失面積 市街地の約1/2で2万坪
◎ 消失戸数 158戸
◎ 罹災者数 総戸数の47%で828人
◎ 損害額 40余万円
戸数においては約半数であったが、富力においては8割余を占める中枢部であり、ほとんど全滅
に等しい有様であった。
以来、芦別市街においては毎年4月11日を大火記念日として、芦別神社を中心に鎮火祭を催し
て当時の苦難を偲ぶとともに、消防関係者が防火宣伝に努めている。
大火後、数度の小火災が発生したが、かつての苦い経験にかんがみ組員は一致団結して災害を最
小限にとどめ、住民の生命財産の保護にあたった。
その結果、昭和4年9月には第二部に対し、金馬簾一条の使用が許可された。
3 ガソリンポンプから自動車積載ポンプへ
第一部の消防自動車
住宅の増加その他の関係から、従来のガソリンポンプでは十分な消防活動が難しいことから、自
動車積載ポンプの購入を計画。また、村会もその必要を認め昭和9年8月第一部備え付け用の自動
車積載ポンプ1台を札幌から購入した。
フォード1929年式、4気筒、24.3馬力であった。
第二部の消防自動車
翌昭和10年、小頭沢田作蔵、松井久一が秩父別に出向き中古自動車を買い受け、先に購入の鈴
木式ガソリンポンプを積載することとして、種々苦心の結果ついに実現をみた。
芦別消防組第二部自動車ポンプ(昭和10年)
3節 新城・班渓・野花南の消防の誕生
1 新城
昭和3年4月、新城地方の発展に伴い、治安維持と防火防災施設の必要から、新城駐在所石井巡
査、森 清一、中村清太郎らが発起人となり、部落有志の協力を得て私立新城消防組を設立し、組
頭に森 清一、部長には中村清太郎が就任した。
その後、新城、三又の沢(現豊岡町)、上班渓(現黄金町)が次第に発展するに従い、これを第
二部から分離して、昭和7年4月芦別消防組第三部を設置したが、こえて昭和12年7月には第三
部を廃止し、同地域をもって独立した新城消防組とした。
2 班渓(現常磐町)
班渓においては、大正3年7月、私立下班渓火災予防組合が発足。組合長は、大道栄蔵が就任し
た。
昭和3年、在郷軍人分会第二班が救護隊と組織し、消防と防犯の任に当たり、隊長には中辻幸一
郎が就任した。隊員は25名で、詰所は御料局から用材の払い下げを受け、隊員の勤労奉仕によっ
て新築した。
昭和10年4月第二部の管轄から分離独立して班渓消防組が設立され、初代組頭に谷口与作が就
任した。
3 野花南
野花南地方では、大正2年11月富良野線鉄道(現JR根室本線)が開通して、野花南駅を中心
として旅館、郵便局、商店等が建築され、一般住宅も密集し、人口も日を追って増加したので、火
災予防ならびに治安維持の必要から部落民が協議のうえ、大正4年4月野花南火防組合を設立し
た。
ついで、大正8年6月には中型腕用ポンプ1台を購入して消防組私設消防部を組織、翌9年12月
に至って公立野花南消防組の設立の許可となった。
4節 消防組時代の組頭
1 私立芦別消防組頭(初代) 大 西 六三郎
自)大正6年2月20日 至)大正7年5月16日
2 公立芦別消防組頭(初代) 大 西 六三郎
自)大正7年5月17日 至)昭和8年4月 4日
3 公立芦別消防組頭(2代) 寺 崎 隆
自)昭和8年6月 至)昭和11年1月
4 公立芦別消防組頭(3代) 関 塚 清 蔵
自)昭和11年1月 至)昭和14年3月31日
5節 警防団の誕生
時局の緊迫化に伴い、消防組に対しても本来の使命である消防の他に、さらに重要任務を持つこ
とに政府の方針が定まり、昭和14年1月24日警防団令の交付をみるに至った。
これにより消防組は、昭和14年4月1日をもって芦別警防団に統合され新発足をした。
各分団は、消防部・警防部の二部制を採用し、警防団令に基づき団長に村長の豊島亀三郎、副団
長に助役の中西太次郎、芦別消防組第二部長の大西駒太郎がそれぞれ就任し、昭和17年12月
12日豊島村長が退職した後、副団長の大西駒太郎が就任、再び経験に富む民間人がその任に当た
ることになった。
次の体制である。
第一分団
下芦別(現本町)、辺渓(現旭町)、西芦別、上芦別、頼城
第二分団
下班渓(現常磐町)、次郎島(現福住町)
第三分団
新城、上班渓(現黄金町)、三又の沢(現豊岡町)
第四分団
野花南、奔茂尻(現滝里町)
警防団について詳細に明記する。
人口の都市集中化の傾向と、一方、非常時局の緊迫にともなって官設消防も、消防組も、その機
構はもとより、人員、設備も増加してきた。
その後、防空問題が起こり、昭和4年から5年頃、軍部の指導により民間防空団体として防護団が
全国的に結成された。
昭和12年には、「防空法」が制定され、国防体制の整備が急がれるようになり、内務省は、消
防組と防護団の両者を発展的に解消して新しい強力な警防組織を設けるため、軍部の協力を得て昭
和14年1月に「警防団令」を交付した。
当時の警防団は、全国で団員300万人といわれている。
警防団令の概要は次のとおりとなっている。
1 地方長官は、職権または市町村の申請により、防空、水火消防その他の警防に従事する警防団
を設置する。
2 警防団は、団長、副団長、分団長、部長、班長及び警防員で組織し、その区域は原則として市
町村の区域による。
3 団長、副団長は、地方長官が命免し、その他の団員は警察署長が命免する。
4 警防団は、地方長官が監督し、更に警察署長が地方長官の命令を受けて指揮監督する。ただ
し、特設消防署の管轄区域においては、水火消防に関する警察署長の職務は消防署長が行う。
北海道で特設消防署の設置が指定されたのは、昭和18年に函館、室蘭、昭和19年に札幌、
小樽となっている。
5 警防団に関する費用は、市町村が負担する。
6節 警防団第五分団を増設
富岡(現上芦別町)、頼城は、昭和14年警防団設置以来、第一分団の区域となっていたが、第
一分団からの距離は富岡では約1里、頼城では約2里半を超えかつ両部落に連絡する芦別川の木橋
を唯一の通路としている関係上、万一橋梁の破壊の際は人馬、車両の通行が全く途絶し、ただ傍観
せざるを得ない状態であった。
特に富岡には、東芦別炭鉱並びに野花南発電所等の施設があって、戸数574戸、人口2,965
人を数え、警護充実の必要から昭和19年10月28日、道庁長官の許可を得て第一分団より分離
して、富岡、頼城両地区を区域する第五分団を増設した。
7節 三井芦別鉱業所が警防団を設置
昭和14年第一坑(西芦別)の開発以来出炭も急激に増加、翌昭和15年には第二坑(頼城)の
開発が行われ、戸数1,400戸、人口9,200人に達したため、時局化の非常変災を考慮し、
昭和19年4月18日をもって芦別警防団第一分団から分離独立、三井芦別鉱業所が警防団を設立
した。
8節 消防用水の確保
警防団時代に消防用水の確保について苦心したが、当時の第一分団長の沢田作蔵が、下芦別土功
組合と折衝し、土功組合用水を地蔵町から市街側側溝を通して通水することになり、昭和19年
11月に着工し、住民の協力を得て約1ヶ月で完成し、多年の念願が達成された。
防火井戸の増設も行い、防火用水確保に万全を期している。
第2章 消防の成長(自治体消防時代)
1節 消防団設置
1 従前の警防団は、戦時体制下に編成されたものであって、終戦後の消防施設としてはもとより
適当ではなく、かねてから当局においては時勢下に適応し、かつ戦前における消防組の精神を取
り入れた新しい消防施設についての考究を重ねていたが、昭和22年4月30日をもって消防団
令が公布され、警防団はここに終止符を打つこととなった。
芦別市においても、芦別町消防団設置条例、その他諸規程を整備し、昭和22年9月1日を期し
て芦別消防団を新設、同時に芦別警防団の解散をみるに至った。
また、同時に町長の諮問機関として消防委員会が設けられた。
この委員会は、消防の運営を民主的に設備、事務処理等について検討する会である。
2 この消防団令では、消防団は、郷土愛護の精神をもって社会の災厄を防止することを目的と
し、水火災の予防、警防及び防圧、水火災の際、救護並びにその他の非常災害等の場合における
警戒及び救護に従事するものとされており、また、市町村は、消防団を設置しなければならない
とされている。すなわち消防団の設置は義務設置とされた。
昭和23年3月24日に公布された消防団令では、消防団は任意設置制となり、消防団に対す
る指揮監督権は警察部長または警察署長(消防署長)から市町村長、消防長及び消防署長に移さ
れた。
文献によると、この制度に入ったころの消防団員数は全国で200万人と言われている。
3 昭和23年3月23日法律226号をもって新たに消防組織法が発令され、同23年3月7日
から施行された。これより、警察から消防を分離独立して、自治体消防が発足、市町村の責任に
おいて運営管理されることになったものである。
このため、芦別警防団を芦別消防団とし、三井芦別警防団を三井芦別消防団と改称した。
4 消防組織法制定の経過と内容
現在も生き続けている法律の誕生に紐解いて詳細に明記しておく。
当時、政府は警察制度及び消防制度の改革を地方制度の改革と同時に実施したい考えであった
が、日本政府と連合総指令部との間で警察制度の改革案で難航したために、日本国憲法及び地方
自治法と同時施行することができなくなった。
昭和22年9月16日、マッカーサー元帥から内閣総理大臣あての書簡で警察制度に関する基
本方針が示され、また、同年10月21日総指令部民間情報局公安課の消防行政官エンジェルが
内務省に対し「消防法に関する件」の覚書案を示した。
内務省では、これに基づいて消防組織法案を作成し、総指令部と折衝を行った後国会に提出
し、昭和22年12月23日に消防組織法が公布された。(消防法の交付は、翌昭和23年であ
る。)
消防組織法の特徴は、次のとおりである。
⑴ 従来、消防は警察の中に包含されていたのに対し、消防を警察より分離独立させた。
⑵ 従来、消防は警察権の範囲に属していたのを民主化及び地方分権の趣旨に従って、すべて市
町村の責務に移したこと。これに伴い、従来警視庁及び12府県警察部に属していた官設消防
は、すべて市町村に移され、消防の訓練機関のみを都道府県に残した。
⑶ 国の機関として国家消防庁を設置し、市町村の消防の発展のため法律または基準の研究立案
を行うとともに、各種の試験研究を行うこととした。
⑷ 消防の責務を市町村の責務としたことから、地震、台風等の大災害に際しての災害防御措置
については、国家地方警察、都道府県知事及び市町村の総合間においてあらかじめ協定をする
ことができることとした。
2節 炭鉱の消防団設置と統合
戦後自治体消防となったとき、芦別消防団のほかに三井芦別消防団があったのは、炭鉱を有する
芦別の特殊事情によるものであるが、この他にも、炭鉱を基盤とする消防団が続々と誕生した。
昭和23年4月の明治芦別、三菱芦別、高根炭鉱がこれであるが、25年4月には油谷も加わっ
た。
こうして炭鉱を基盤とした消防は全盛時代に入るのであるが、その後次第に統合の傾向をたどって
いる。
昭和25年1月
高根炭鉱消防団を芦別消防団(第六分団)へ編入
その後、昭和42年11月閉山により第一分団管轄区域に編入
昭和38年7月
油谷、明治、三菱各消防団、芦別消防団に編入、第七分団(油谷)第八分団(明治)第九分団
(三菱)とした。
昭和39年7月
芦別消防団第八分団(明治)第九分団(三菱)を第五分団に、三井芦別消防団を芦別消防団に
統合して第八分団(西芦別)第九分団(頼城)第十分団(三井黄金)とした。
3節 耐寒用水槽自動車ポンプの購入
芦別消防団が組織されて以来、最も考慮されたのは自動車ポンプ整備で、特に芦別消防団の第一
分団では、町の中心として消防員を常置する機動消防隊としてポンプ3台が配置されていたが、現
有勢力では地方への火災出動の便否、障害が予想されることから、耐寒用水槽自動車ポンプ購入の
機運が盛り上がり、昭和26年6月13日、札幌市共和工業株式会社と随意契約を結び、昭和27
年2月5日芦別市街において試運転の後、芦別消防団第一分団に配置され、新威力を発揮すること
となった。この時の価格は、230万円である。
第五分団富岡(現上芦別)地区は近年著しく戸数が増加し、昭和27年1月現在で戸数827
戸、人口4,079人に達した。
そのうち上芦別市街の戸数の増加が著しく、ガソリンポンプ1台では不十分で、地区住民からたび
たび自動車ポンプの備え付けを要望されていたもので、町でもその必要を認め、第一分団と協議の
結果、第一分団備え付けの消防自動車を第五分団に配置転換することとなった。
昭和27年4月6日放水試験の上引き渡しをした。
4節 消防本部と消防署の設置
1 芦別市消防本部・署
昭和28年4月1日市制の施行に伴い、消防組織、設備もまた従来の消防から近代消防への衣替
えを行うこととなり、昭和30年12月1日芦別市消防本部並びに芦別消防署が設置された。
2 消防用無線局設置
消防本部並びに消防署設置を契機として、組織の充実にあるいは消防器具のそれぞれに整備が図
られ、その能率の向上に努力がなされてきたが、一面出火の早期発見のため、望楼(昭和29年設
置)による監視、電話、口答等による連絡が行われているが、たまたま消防用無線局設置の必要性
が高まり、種々計画が進められた結果、昭和32年12月23日消防本部を基地局としてF1型出
力3W周波数2120KCの装置を、また消防署並びに第一分団所属の消防自動車に移動局F1型
出力3W周波数2120KC、携帯局GM4型出力0.5W周波数2120KCの設備を設置して
通信施設の万全を期した。
この無線施設については、その後も施設の充実に努めている。
5節 近代消防へと歩む
芦別市の消防は、前述してきたように先人の努力により変貌を重ねて現在の消防体制を確立され
てきた。
火防組合、消防組、警防団、消防団、そして消防本部・署へと歩んできている。
この節以降では、昭和30年から現在に至るまでを、年表で記載することとする。
昭和34年 4月 芦別消防団、日本消防協会より成績優秀にて、竿頭綬授与される
昭和38年 7月 油谷、明治、三菱各消防団、芦別消防団に編入、第七分団(油谷)第八分
団(明治)第九分団(三菱)となる
7月 前記三個分団に消防署機関員出張所設置
7月 芦別消防団第四分団滝里支部設置
昭和39年 7月 芦別消防団第八分団(明治)第九分団(三菱)を第五分団に、三井芦別消
防団を芦別消防団に統合し、第八分団(西芦別)第九分団(頼城)第十分
団(三井黄金)とした
あわせて、消防署西芦別分遣所並びに頼城機関員出張所を設立した
昭和41年 5月 芦別消防団第六分団(高根)に消防署機関員出張所設置
昭和42年11月 芦別消防団第六分団高根炭鉱閉山に伴い、同地域を芦別消防団第一分団管
轄区域に編入
12月 芦別消防団第十分団(三井黄金)に消防署機関員出張所設置、消防ポンプ
自動車配置
昭和43年 4月 芦別消防団第四分団滝里支部を芦別消防団第六分団と改組
昭和44年 8月 芦別市総合庁舎新築に伴い、芦別消防団第一分団新庁舎へ移転
昭和45年12月 芦別消防団第五分団に、水槽付消防ポンプ自動車を配置
昭和46年 5月 芦別消防団成績優秀により北海道消防協会より表彰旗授与される
10月 消防署上芦別分遣所及び西芦別分遣所を上芦別出張所及び西芦別出張所と
改組
12月 消防署西芦別出張所に化学消防ポンプ自動車配置
12月 芦別消防団第六分団(滝里)に消防ポンプ自動車配置
昭和47年 7月 三井芦別鉱業所黄金炭鉱閉山に伴い、芦別消防団第十分団解団 同地域を
芦別消防団第二・第三分団管轄区域に編入
昭和48年12月 芦別消防団第一分団に、消防ポンプ自動車を配置
昭和49年 4月 芦別消防団条例一部改正により、第七分団(油谷)を解団、同地域を第一
分団管轄区域に編入
4月 第七分団解団に伴い、消防署油谷機関員出張所閉鎖
昭和50年10月 消防署西芦別出張所に水槽付ポンプ自動車を配置
昭和51年 3月 消防署上芦別出張所に消防ポンプ自動車を配置
8月 消防署常磐機関員出張所に消防ポンプ自動車を配置
昭和52年 9月 芦別市消防署組織規程の一部改正により、頼城機関員出張所を頼城出張所
に名称変更
昭和53年 9月 消防署頼城出張所に消防ポンプ自動車を配置
昭和54年10月 消防署上芦別出張所に消防ポンプ自動車を配置
昭和55年 9月 消防署頼城出張所に消防ポンプ自動車を配置
昭和56年 9月 消防署上芦別出張所に消防ポンプ自動車を配置
昭和58年 7月 芦別市消防本部・署組織規則一部改正により、上芦別、西芦別、頼城出張
所をそれぞれ分遣所に名称変更
8月 消防署西芦別分遣所に水槽付消防ポンプ自動車を配置
昭和60年 8月 芦別消防団第一分団に消防ポンプ自動車を配置
昭和61年 8月 滝里ダム建設に伴い、芦別消防団第六分団解団 同地域を芦別消防団第四
分団管轄区域に編入
10月 芦別消防団第六分団(滝里)解団に伴い、第八分団(西芦別)を第六分団
に、第九分団(頼城)を第七分団に改組
平成 元年 4月 芦別消防団を芦別市消防団に名称を改める
平成 2年10月 芦別市消防団第四分団に水槽付消防ポンプ自動車を配置
平成 3年 8月 芦別市消防団第三分団に消防ポンプ自動車を配置
平成 4年 1月 芦別市消防団女性消防団員入団式
平成 5年11月 芦別市消防団第二分団に小型動力ポンプ付積載車を配置
平成 8年11月 上芦別分遣所に消防ポンプ自動車を配置
平成12年11月 北海道消防表彰で、芦別市消防団が優良消防団として竿頭綬を受章
平成15年 4月 芦別市消防本部・署組織規則一部改正により、西芦別分遣所を廃止し職員
引き上げ
平成17年 3月 消防庁長官より芦別市消防団に竿頭綬を受章
12月 上芦別分遣所に水槽付消防ポンプ自動車を配置
平成22年11月 芦別市消防団第六分団(西芦別)に消防ポンプ自動車を配置
平成23年 5月 芦別市消防団第一分団に消防ポンプ自動車を配置
平成25年 4月 芦別市消防団女性分団結団式
平成26年 1月 芦別市消防団第四分団(野花南)に消防ポンプ自動車を配置
6節 消防広域化
国から消防の広域化を進めるよう提言があった後、全国で広域が一気に進むこととなり、芦別市も
赤平市を含めた滝川地区広域消防事務組合と広域化の調印が、平成25年10月に行われた。
それにより、滝川地区広域消防事務組合芦別消防署、滝川地区広域消防事務組合芦別消防団と組織
変更された。
平成26年 4月 消防広域化により滝川地区広域消防事務組合に加入、それに伴い、芦別市
消防団を滝川地区広域消防事務組合芦別消防団と名称変更
平成28年 2月 芦別消防団第六分団(西芦別)と第七分団(頼城)を統合し、第六分団
本所(頼城)、分所(西芦別)となる
平成28年 3月 芦別消防署庁舎新築移転に伴い、団本部室を新設し第一分団及び女性分団
詰所を新庁舎内へ移転
平成28年 4月 上芦別分遣所及び頼城分遣所の職員派遣を廃止する
それに伴い、それぞれ車両2台(うち1台はタンク車)をポンプ車1台とする
令和 元年 7月 芦別消防団第二分団(常磐)に消防ポンプ自動車を配置